南知多三十三観音霊場巡りの旅 浄土寺

浄土寺

巡礼記

訪問日:平成22年10月3日

本堂に上がると中央に薬師三尊像、左右に十二神将像が祀られていました。右壇には弘法大師像、聖徳太子像が安置され、左壇には千手観音像が祀られ、左右に西国三十三観音霊場の写し本尊が安置されていました。結縁綱が十六番の清水寺の写し像と繋がっており、ここでも南知多三十三観音霊場が西国三十三観音霊場の写し霊場であることを強く意識していることを感じました。

御朱印を頂いた後、お寺の方から別のお堂に祀られている龍亀大菩薩について話を聞きました。以下に龍亀大菩薩の由来について書きます。

大海龍亀大菩薩は明治四十二年九月十日に小佐の海岸に上がられました。身長六尺、幅三尺七寸、重量五十三貫で、甲背には「奉大海龍大神」の六文字があり、伊賀上野町谷村佐助他十一名の姓名も記されていました。

この日の朝早く村人・山本長之助が海岸を通行している時、彼方の岸上に怪しき物を認め、何ものであろうかと近寄れば大亀でした。大亀の様子は如何にも元気が無く、死に瀕するもののようでした。

山本氏は哀れみ、大亀に「この岸に上がるのも深い縁のあってのことでしょう。あなたを神として祀り、当村の守護神としましょう」と言いました。この言葉が大亀に通じたのか、大亀は両手を頭上に挙げ、その姿はあたかも合掌をしているようであり、非常に喜んでいるようでした。

山本氏はこのことを早速、浄土寺の和尚に報告しました。和尚は驚いて膝を進めて、以下のように語りました。

世にも不思議なことがあるのもじゃ。昨夜にて三夜連続、同じ夢を見ている。夢の中で、霊亀が白髪の老人となって、吾にこう告げるのじゃ。「余は長く海中に棲息する大亀であるが、もはや近く天寿が尽きようとしている。もし吾を神に祀れば、誓って諸願成就を実現しよう。夢疑うことがないように」

和尚は村人を集め、海岸に行き、霊亀に「今より汝を神にあがめて我境内に奉安しよう」と言うと、霊亀はさも嬉しそうに眠るが如く、永眠しました。和尚は村人と共に境内御神木であるケヤキの下に「龍神もろともにこのところへ鎮め奉る」と懇ろに埋葬し、大海龍亀大菩薩と称し奉り、神酒供養物を献じ、おごそかに供養しました。

また一方、伊賀上野町谷村佐助方へ事の次第を伝えると先方は大いに驚き、直ちに一族を引き連れて小佐に来て、大供養を営みました。谷村氏がこのように霊亀を尊崇するに至った理由は以下のようなものです。

氏は長く病気に苦しみ、医薬の効果も無く、ただ死を待つのみの状態でした。ある夜、霊亀が白髪の老人となり、「我は長く海中に住む大海龍大神なり。我を十七日一心に念じて供養すれば、病立ち処に平癒すべし」と言いました。

夢から覚めると翌朝、二見浦方面に人を派遣しました。番頭が二見浦に到着すると、今しがた漁夫の網に大亀が入ったと聞き、その霊亀を上野の主家に持ち帰りました。

谷村氏は喜び、十七日間とても懇ろに供養しました。すると不治の難病とされた病気が平癒し、氏とその一族は大いに喜び、感激のあまり大亀の背上に奉大海龍大神と大書し、一族の姓名を記し、再び、二見浦に放生しました。その日が明治四十二年九月二日の事であります。

谷村氏は我が命の親たる大海龍大神が小佐に上がり、神に祀られているのは実にこの上ない喜びであると嬉し涙を流し、村人を招いて、大法要を営み、帰国しました。

その後、誰言うと無く霊験あらたかなることを聞き、参拝するものが引きもきらず、長命息災のご守護、海上安全、大漁満足、商業繁栄、難病平癒、厄難消滅の祈願一つとして叶わなかったものはありませんでした。

また翌年の四十三年九月八日、海岸に身長五尺の大女亀が上がられ、村人は大いに驚き、直ちに和尚に報告しました。その奇縁を尊び、相談の上、大海龍亀大菩薩と同所に埋葬し、おごそかに供養されました。

不思議な利益を受けた人の数は多いが、三河国の竹松氏は座骨神経痛の重患にかかり、名医の施す術もなく、落胆した月日を送っていました。ある日、老婆が大海龍亀大菩薩の御霊石を渡し、竹松氏が遙か南方に向かい龍亀菩薩を一心に念じ祈願すると、不思議にも三年間歩行も出来なかったので、一夜のうちに立つことが出来るようになりました。

以上が龍亀大菩薩の由来ですがお堂の中には谷村氏から山本氏への感謝の手紙が掲げられており、またお堂は谷村さんが建てたものだそうで、上記の由来が本当であることが分かります。境内には大亀の石像もあり、感慨深くお参りをしました。

本堂と龍亀大菩薩が祀られているお堂

本堂と龍亀大菩薩が祀られているお堂

龍亀大菩薩の石像

龍亀大菩薩の石像