「鎌倉の地蔵信仰」講演会
聴講日:平成25年2月23日
横浜市にある金沢文庫で月例講座「鎌倉の地蔵信仰」を聴講して来ましたので、その時の話を書きたいと思います。
・地蔵菩薩は地獄に落ちた者を救う仏として、信仰されてきた。
・地蔵菩薩は菩薩と言うように元々は観音菩薩のような菩薩形であった。しかし、六道を廻るので、僧形(声聞形)をしていると考えられるようになり、今のような僧形となった。
・地蔵信仰は平安時代後期から盛んになる。それは、天変地異とそれに伴う飢餓や疫病、また源平合戦などにより、地獄が身近に感じられるようになったからである。
・平安時代後期、貴族の中心は藤原氏。春日大社は藤原氏の氏神であり、三宮の天児屋根命は藤原氏の先祖であると考えられ、特に信仰された。天児屋根命の本地仏が地蔵菩薩であり、地蔵信仰が広がった。藤原氏の没落後は、地獄から救ってくれる仏として、地蔵菩薩は信仰され続けた。
・東国では中尊寺の金色堂に祀られている六地蔵の影響が大きい。
・鎌倉では13世紀後半に地蔵信仰が拡大し、覚園寺の黒地蔵など多くの仏像が残っている。
・十王信仰もある。鎌倉の円応寺には十王が祀られており、東京の現存している江戸時代の閻魔像は円応寺の閻魔像をモデルにしているものがほとんどである。
・鎌倉では地蔵信仰の流れには二つある。
一つ目は建長寺における信仰である。建長寺は禅宗のお寺であるが、創建当初から地蔵菩薩が本尊であった。二つ目は真言律宗による信仰である。真言律宗は石工集団を持っており、石仏は真言律宗の石工により造られたと考えられる。
・北条時頼の信仰も見逃せない。時頼は建長寺の開基であり、真言律宗の叡尊を鎌倉に招いている。
・弥勒信仰と地蔵信仰も関係がある。弥勒如来は56億7千万年後に現れるが、それまで待てないので、弥勒菩薩のいる兜率天に行きたい信仰が生まれた。兜率天に連れて行ってくれるのが、地蔵菩薩である。