水掛不動
太郎君が小学校から家に戻ってくると家の様子がいつもと違っています。小学校から戻ってくる時間にはいつもはいないお母さんが家におり、家の中を忙しそうに走り回っています。
「お母さん、ただいま。今日はどうしたの」
太郎君がそう尋ねると、
「太郎、お帰り。おばあちゃんがね、散歩の途中に転んで骨折したの。近くの人が救急車を呼んでくれて、病院に連れて行ってくれたのよ。お母さんは病院から電話を貰って、急いで病院に行って、今、戻ってきたばかりなの」
「おばあちゃんは今、病院にいるの」
太郎君が更に尋ねると、
「そう、入院することになったの。今度の日曜日一緒にお見舞いに行きましょう」
おかあさんはそう答えるとまた忙しそうに家の中を駆け巡り始めました。
次の日曜日、太郎君はお母さんと一緒におばあさんのお見舞いの為に病院に行きました。病室でしばらく三人で話していましたが、お母さんが所用で少し席を外すとおばあさんは太郎君に言いました。
「太郎、おばあちゃんが毎月28日にお寺にお参りに行っているのは知ってるでしょう。28日はね、おばあちゃんが若い頃から信仰している不動明王の御縁日なのよ。だけど、骨折したので、今度の28日はお参りに行くことができない…。だから、太郎におばあちゃんの代わりにお参りに行ってきて欲しいの。本当はお前のお母さんに頼めば良いのだろうけど、お母さんは仕事があるし、あまり信心深い方じゃないからね。太郎、行ってきてくれるかい」
「うん」
太郎君は元気の良い声で答えました。
「ありがとうよ、太郎。お寺に行ったら、水掛不動と呼ばれているお不動さんがいらっしゃるから、水をたくさん掛けて、おばあちゃんの骨折が早く治るようにお願いしておくれ」
太郎君はおばあさんとそう約束をしました。
おばあさんと約束をした28日がやってきました。この日は朝から大雨で、この季節にしてはかなり寒く感じる日でした。太郎君は学校から帰り、荷物を置くとすぐにお寺に向かいました。お寺は家から歩いて二十分程度の場所にあります。お寺に着くと早速、境内を見渡しました。すると、何人かが列を作っているのが見えました。そこに行ってみると、列の先頭の人がお不動さんの像に水を掛け、手を合わせていました。
太郎君は早速、列の最後尾に並びました。お参りの人が次から次へと不動明王の像に勢いよく水を掛けています。それを見た太郎君は
「お不動さん、寒くないのかな」
と、ふと思いました。雨が降って、ただでさえ寒いのに、その上、水を掛けられたら、どんなに寒いだろう。そういう気持ちが太郎君の中でどんどん大きくなってきました。
そうこうするうちに太郎君が列の先頭になりました。太郎君は水を掛けるかどうか迷いましたが、
「お不動さんが寒くてかわいそう」
という気持ちが勝って、水を掛けずにおばあさんの一日でも早い回復を手を合わせてお願いしました。
お参りが終わるとお寺の近くにある公衆電話から病院にいるおばあさんに電話をしました。
「おばあちゃん、今、お不動さんにお願いをしてきたよ」
「そうかい、そうかい、ありがとうよ。水は上手く掛けることができたかい」
「お不動さんが寒そうだったから、水は掛けなかった」
おばあさんはこの言葉を聞くと骨折が中々治らない苛立ちから、つい大きな声を上げ、
「水掛不動なんだから水を掛けなきゃ、意味がないだろ」
そういうと電話を切ってしまいました。
その夜、おばあさんと太郎君はまったく同じ夢を見ました。奈良の大仏様のような大きな大きなお不動さんの前におばあさんと太郎君が座っています。お不動さんはよく通る声でゆっくりと二人に話し始めました。
「これ婆や。太郎を責めるのはよせ。太郎が儂に水を掛けなかったのは儂を思いやってのことじゃ。実を言うとな、雨が降ってる中、朝から水を掛けられ続け、さすがの儂も寒くて震えておったのじゃ。そこに太郎が現れ、儂を思いやって、水を掛けなかった。儂はとても嬉しかったぞ。他を思いやる気持ち、とても大切じゃ」
おばあさんは恐縮して、お不動さんの顔をまともに見ることができません。
「本来なら、怒りを表したおまえの早い回復など、叶えたりはせぬ。しかし、心優しい太郎の願いじゃ。願いを叶えてやろう。良い孫を持ったな」
お不動さんはそう言うと、右手に持った大きな剣をおばあさんに向かって振り下ろしました。ブチッと何かが切れるような音がして、二人は夢から覚めました。
翌月の28日は雲一つない青空で、朝から初夏を思わせる気候です。
「おばあちゃん、今日はお不動さんにたくさん水を掛けても大丈夫だね」
「そうだね。今日は暑いから、お不動さんも水を掛けて欲しいだろう」
お寺の境内には仲良くお不動さんにお参りをしているおばあさんと太郎君の姿がありました。