長谷寺式観音
なぜ、長谷寺の観音様は右手に錫杖を持っているのでしょうか。それについて、以下のような話が伝わっています。
昔々のことです。まだ観音様が修行時代の話です。観音様は日本の初瀬と呼ばれる場所で、お地蔵様と隣り合って生活をしていました。二人は悟りを開き、あまねく衆生を救うという共通の誓いを立てていましたが、その行動は大きく違っており、観音様は初瀬をほとんど動かず、一方、お地蔵様は様々な場所を歩き回り、初瀬に戻るのは1ヶ月に一度程度でした。
ある日の夕方、観音様が座禅を組んでいると、お地蔵様が足を引きずりながら、戻って来るのが見えました。
「お地蔵様、足をどうされましたか」
観音様が驚いて駆け寄り尋ねると、お地蔵様は
「山道を歩いている時に足をくじいてしまいました」
と苦しそうに答えました。観音様はお地蔵様に肩を貸し、一緒にお地蔵様の家まで歩きました。家に到着すると、お地蔵様は
「残念ながら、しばらくは安静にしている必要がありそうです。私は毎月異なる村に出かけ、そこで法話を説いているのですが、しばらくは無理そうです。そこで、観音様に代わりをお願いしたいのですが」
と申し訳なさそうに言いました。困っている人がいれば、すぐに助けるのが観音様です。
「分かりました。安心して療養に努めてください」
と即答しました。それを聞いたお地蔵様は何度もお礼を言いました。そして、錫杖を持ち、
「それでは、この錫杖をお貸しします。この錫杖があれば・・・」
と言いかけると、観音様は
「錫杖があれば、小さな生き物を踏むこと無く、道を歩けることは知っています。しかし、私はご覧の通り、十一面の顔を持ち、あらゆる方向を見ることができます。ですので、錫杖が無くても、小さな生き物を踏むことはありませんよ」
と申し出を断りました。お地蔵様は何か言おうとしましたが、観音様は
「では、法話をされている場所を教えて下さい」
と話を先に進めてしまいました。
翌朝、観音様はお地蔵様に教えてもらった村に向かって出発しました。路上にいた小さな生き物は観音様を見て驚き急いで道を開けようとしましたが、観音様は
「あなたたちを踏むことはありませんよ」
と上手に避けて歩いていきました。数日歩いた後、最初の目的地に到着すると、観音様を見た人々が集まりだしました。そして、ある程度人が集まったところで、観音様はお地蔵様が怪我をしたことを伝え、法話を説き始めました。法話は無事終了しましたが、人は思ったほど集まりませんでした。次の目的地、その次の目的地でも同じように法話を説きましたが、人はあまり集まりませんでした。
「私の法話がお地蔵様のように上手くないから、人が集まらなかったのかな」
そう考えながら、観音様は一ヶ月ぶりに初瀬に戻りました。そして、お地蔵様の家を訪ね、怪我からの回復具合をみていると、入り口の戸をノックする音が聞こえました。観音様が戸を開けると、数人の老若男女が立っており、彼らは足に怪我をしているお地蔵様を見て、
「やっぱり怪我をされていたんですね。説法がなく、心配になり、来てしまいました」
と言いました。お地蔵様は怪我をしたことを詫びた後、
「あなた方がいる村には観音様が訪れたはずですが、法話を聞かなかったのですか」
と尋ねました。
「観音様が代わりに来られていたんですか。全然気づきませんでした。私たちは毎日脇目も振らず仕事をしなければなりません。錫杖の音が聞こえた時、お地蔵様が来られたと分かり、仕事を中断して、説法を聞きに行っています」
それを聞いた時、観音様はお地蔵様が錫杖を渡そうとした時、何を言おうとしたのか理解し、自身の態度を恥じました。そして、
「皆様、次回は必ず錫杖を持って村を訪れます。錫杖の音が聞こえたならば、集まって下さいね」
と答えました。
翌朝、観音様は右手に錫杖を持って出発しました。錫杖の音が聞こえると、路上にいた小さな生き物は観音様の邪魔にならないように前もって場所を移動しました。そして、観音様が目的の村に到着すると、錫杖の音を聞いた多くの老若男女が法話を聞きに集まりました。法話を説く観音様、それを聞く聴衆、皆が幸せな顔をしていました。
お地蔵様の怪我が治った後も、観音様はお地蔵様と交互に村々へ出かけるようになり、その右手にはいつも錫杖が握られていました。