埼玉県立歴史と民俗の博物館では、3月16日から5月6日まで、特別展「東国の地獄極楽」が開催されています。「東国の地獄極楽」というタイトルは非常に興味深いものでしたので、この展示を知ってから訪問しようと思っており、また、熊谷市の東善寺が所有する阿弥陀如来立像が快慶作の可能性が高く、その仏像が本展示で公開されるというニュースを読み、ますます興味を持ちました。そこで、学芸員による展示解説のある3月17日に訪れることにしました。以下、展示を見た及び展示解説を聞いた感想です。
”地獄極楽”の誕生
・「地獄」と「極楽」という考えは元々ありましたが、それぞれ独立したものと考えられていました。しかし、恵心僧都源信の往生要集の後、関連あるものと考えられるようになりました。
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地獄と極楽は最初から関連あるものとして考え出されたと思っていましたので、印象に残りました。
争乱の東国から-彼岸への旅路
・熊谷直実改め連生は修行に励み、師の法然に「坂東の阿弥陀仏」とまで言わしめた。
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熊谷直実が法然の弟子になったのは知っていましたが、「坂東の阿弥陀仏」と呼ばれるまでの存在だったとは知らなかったので、印象に残りました。
・11)善導大師坐像、12)円光大師坐像
甲斐善光寺所有の善導大師坐像と円光大師坐像が並んで展示してありました。善導大師像は胸の前で合掌し、顔は笑顔でしたので、信者と一緒に楽しく念仏を唱えている姿のように感じました。円光大師、つまり、法然上人像は笑顔ではなく、師の善導大師の隣なので、少し緊張しながら、念仏を唱えているように感じました。
また善導大師坐像には顔を一周するような割れ目があり、その下に阿弥陀如来の顔が隠れているようにも感じました。
・13)連生法師坐像
連生、つまり、熊谷直実が出家した後の像です。鼻が大きいのが特徴で、像の対面に「来迎図を前に往生を遂げる連生」の拡大された図があったのですが、そこに描かれた連生の顔と像の顔の形が似ており、熊谷直実は実際に像のような顔をしていたのだろうなと思いました。
また像は肘から先が失われており、熊谷直実が平敦盛を討ったことを後悔し、敦盛を討った自らの手を切断したようにも感じました。
・18)迎接曼荼羅
法然上人が熊谷直実に渡した来迎図とのことです。上述した「来迎図を前に往生を遂げる連生」の図において、連生の前に画が掲げられているのですが、その画が本図と考えられているそうです。法然上人、熊谷直実ゆかりの本図はとても価値があると思います。
・連生の往生
連生の往生について解説がありました。連生は往生する日を予告しており、1206年に翌年の2月8日に往生すると予告していましたが、延期しました。これは法然上人が流罪になるなど浄土宗が危機的な状況だったからと考えられているそうです。2回目は1208年9月に往生すると予告し、そのとおりに往生したそうです。解説を読み、熊谷直実についてもっと知りたいなと思いました。
東国の地獄極楽-浄土宗第三相良忠と関東三派の東国布教
・浄土宗の東国への布教に最も影響力を持ったのは良忠であり、数々の門弟を育てましたが、良忠の次世代を担ったその門徒たちは自分たちの教義が良忠の教えを正しく伝えていると主張し、東国では、白旗派、名越派、藤田派の三派が力を持ちました。
しかし、藤田派は消滅してしまいます。その理由は、藤田派は知恩寺、白旗派は知恩院と関係が深かったのですが、徳川家が知恩院と深く結びついたので、知恩院が力を持ち、藤田派は白旗派に吸収されました。現在の浄土宗の主流は白旗派だそうです。
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東国で白旗、名越、藤田の三派が争って、それぞれの教義を広めていたのは知らなかったので、興味深かったです。
地獄極楽のそれから
・東善寺の阿弥陀如来立像
快慶作、あるいは快慶工房で造られたと考えられている像です。X線で内部を調べたところ、納入品があることが分かったそうなので、その納入品を調査すれば、快慶作かどうか分かるかも知れないとのことです。また、修理などはしておらず、造られた当時の姿をしているそうです。
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ガラスケースの中に収められており、360度から鑑賞できます。快慶作と考えられるほどですから、良いお顔をされていました。本格調査がされるでしょうから、結果が楽しみですね。
最後に
予想通り、興味深い良い展示でした。特に熊谷直実に関する展示が印象に残りました。一つ後悔があるとすれば、エンマちゃんカレーを食べなかったことです。あるとは知らず、昼食は大宮駅周辺で食べて、博物館を訪れました。これから特別展を訪れる方は是非食べてみて下さい。
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