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  1. 博物館

金沢文庫 月例講座「江戸時代の称名寺と仏像」を聴講

江戸時代の称名寺展

7月10日、神奈川県立金沢文庫を訪れ、月例講座「江戸時代の称名寺と仏像」を聴講しました。コロナ以前は金沢文庫が主催する講座をよく聴講していましたが、コロナ以降はその機会も無くなり、今回の聴講は「いつ以来だろう」と思うぐらい久しぶりでした。以下、印象に残ったことを書きます。

江戸時代の仏像

江戸時代の仏像は美術史では評価が低い。極端な例では、飛鳥、奈良時代の仏像は素晴らしいが、平安時代の仏像はいまいち、鎌倉時代の仏像などは論外という、時代が古いほど素晴らしいという考えが主流だった時期もあった。
しかし悉皆(しっかい)調査により、江戸時代の仏像が再評価され始めた。悉皆調査とは、ある範囲、地域を定めて、そこにある仏像をことごとく調査することである。例えば、横浜市という範囲を定めると、横浜市にある仏像をことごとく調査する。
江戸時代の仏像には、誰がいつ作ったかを示す銘文が含まれていることが多く、歴史的価値が高い。

純粋に美術品として見た時、江戸時代の仏像が鎌倉時代以前の仏像に比べて劣るのは多くの人の共通意見だと思いますので、美術品としての見方で江戸時代の仏像の評価が今後変わることはないように思えます。
趣味としての仏像拝観において、美術品としてだけ見るのはもったいない気がします。銘文が含まれるならば、そこから何故その仏像を作ったのかを深堀りすれば、江戸時代の人々の気持ちに触れる機会にもなりますので、江戸時代の仏像も人気が出るのではと思います。

江戸時代、京都には七条仏師、鎌倉には鎌倉仏師がおり、どちらも運慶の子孫を称していた。七条仏師と鎌倉仏師は古い仏像を修理することで古い仏像から学ぶことができた。江戸時代、仏像が量産されたので形式化したのはそのとおりだが、江戸時代の仏師が鎌倉時代のような仏像を作る腕がなかったわけではなく、江戸時代の好みである。

仏像が江戸時代の好みで作られていたならば、江戸時代と現在で人々の美術的価値は異なるということになります。明治時代に一変したようにも想像できますが、江戸時代の仏像研究が進めば、色々分かってくると思います。

称名寺の四天王像

延宝7年に称名寺金堂の再建が着手され、延宝8年に金堂に安置される弥勒菩薩像を囲む四天王像が鎌倉仏師により造立された。四天王像は大仏殿様であり、同じく大仏殿様の海住山寺像と似ている。
しかし、異なる点があり、それは多聞天が塔を持つ手が、海住山寺像では右手だが、称名寺像では左手である。これは密教の影響であり、奈良時代の仏像は右手に持ち、平安時代以降は左手に持つようになった。

四天王といえば顕教を代表する仏であり、密教とは関係ないと思っていたので、毘沙門天が塔を持つ手の話は印象に残りました。称名寺の四天王像は信仰の対象ということで、金沢文庫で展示されることもあまりないとのことで、私も拝観した記憶がなく、拝観できる機会があればと思います。

観音巡礼

観音巡礼は、西国観音、坂東観音が有名だが、江戸時代には、横浜市金沢区にも金沢観音霊場があり、観音巡礼は江戸時代の人々の娯楽だった。札所は三十三の寺院から構成され、本尊には鎌倉時代の観音像などが選ばれたが、札所本尊として江戸時代に作成されたものも多い。

観音巡礼のため、江戸時代に多くの観音像が作成されたのは納得の理由です。

最後に

講座の聴講は久しぶりでしたが、内容は変わらずとても有意義なもので、楽しい時間を過ごすことができました。

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