神奈川県立金沢文庫では、令和元年5月17日から7月15日まで、特別展「浄土宗七祖聖冏と関東浄土教―常福寺の名宝を中心に―」を開催しています。金沢文庫のホームページは定期的にチェックしているので、この展示が行われるのは以前から知っていましたが、開催直後(5月18日)に訪れようと思ったのは、以下に示す茨城新聞の記事を読んだからです。
水戸徳川家の菩提寺である常福寺(那珂市瓜連)は15日、徳川光圀が同寺に寄贈し鎌倉時代最小となる仏像の可能性がある高さ約1・5センチの阿弥陀三尊像と、浅草寺(東京)の柱で作った慶派の仏師「定快」による観音像が見つかったと発表した。いずれも鎌倉時代に作られ、三尊像は当時の制作技術の高さを示しており、調査に当たった神奈川県立金沢文庫(横浜市)は「大変珍しく、歴史的に極めて重要」としている。
三尊像は中央の中尊阿弥陀如来像が約1・5センチ、両脇侍像が約8ミリと極小サイズ。光圀が作らせた厨子(高さ約25センチ)に置かれている。光圀自身が所蔵していたが、同寺に寄贈した経緯がある。光圀自筆の文章も付属する。運慶や快慶の慶派が確立した様式を踏襲し、鎌倉時代中期から後期の作品とみられる。
一方、観音像「聖観音菩薩立像」(同約50センチ)は東日本大震災を受け、那珂市内にある末寺から常福寺に移された。観音像内にあった墨書を解読したところ、1297(永仁5)年に僧侶が快慶の流れをくむ定快に作らせたことが判明。同文庫によると、江戸時代以前の浅草寺の資料は貴重という。浅草寺本堂の柱を転用しており、秘仏の浅草寺本尊を模したとされ、本尊観音の身代わりにしたと推測される。
常福寺は1338(延元3)年の開山。同文庫は今月17日〜7月15日に開く展覧会「浄土宗七祖聖冏(しょうげい)と関東浄土教-常福寺の名宝を中心に」で仏像を初公開する。展示に向けて約1年間、所蔵する文化財など約100点を調査する中で2体の仏像が発見されたといい、同文庫の担当者は「徳川家の菩提寺として由緒正しさを証明するもの。文化財的価値がある」と分析した。
私は特に「浅草寺本堂の柱を転用しており、秘仏の浅草寺本尊を模したとされ、本尊観音の身代わりにしたと推測される」の文章に惹かれました。浅草寺の本尊を模した像は今まで聞いたことがありませんので、是非、直ぐに拝観したいと思ったのでした。
以下、印象に残った展示です。
展示
1. 聖冏上人坐像
本特別展は、法然上人以降の浄土宗の基礎を作った聖冏上人の遠忌600年を記念したものですので、入口入ってすぐに聖冏上人坐像が展示してありました。聖冏上人は額に三日月形の傷があり、三日月上人と呼ばれたそうで、本像の額にも三日月形の傷があり、印象深かったです。
2. 銅造阿弥陀如来立像
本展示のポスター等に掲載されている仏像です。銅造のためか全体的にムッチリした感じで、隣に展示してある木造の阿弥陀如来立像と比較すると、その違いがよく感じられました。
8. 捨遺古徳伝
捨遺古徳伝は親鸞の曾孫である覚如によって編まれた法然上人の伝記で、善導来現の事で、法然上人が夢の中で善導大師と対面している場面が描かれていました。善導大師は下半身が金色で、浄土宗の正当性を証明する重要な場面ですので、印象に残りました。
59. 厨子入阿弥陀如来立像及両脇侍立像
像はとても小さく、像を拡大した写真があり、それを見てから像を見ると、細部までは分かりませんが、三尊がいらっしゃるのが分かる感じでした。
私が少し離れた場所で別の展示を鑑賞している時、グループで来られている人が
「水戸光圀は近衛尋子と(1654年に)結婚したが、尋子は結婚の数年後(1658年)に亡くなった。水戸光圀は本像に尋子の冥福を祈ったのだろう」
という旨の話をしており、そのグループの方が移動した後、改めて、本像の前に行き、水戸光圀の妻が若くして亡くなったという歴史の事実を知った状態で鑑賞すると、本像に対する見方も随分変わりました。仏像拝観において、歴史の知識は大切であると再認識できた良い機会でした。
72. 聖観音立像
霊木に見立てられた浅草寺大御堂の柱の残材を用いて造られた像です。隣に柳之御影、つまり、慈覚大師円仁が浅草寺の秘仏・聖観音像の御影を刻した版木から刷られた御影が展示してあり、その御影と聖観音立像を比較して見ていると、確かに似ているような気がしました。
図録には「東国・関東の数多い中世の作例には少なからず独尊の聖観音が含まれる。つまり、今後これらの聖観音を再検討すれば、浅草観音の「模刻」として造立されたものが複数含まれるかも知れない」とあり、今後の研究が楽しみですね。
最後に
金沢文庫を訪れる前に隣接する称名寺の浄土庭園を訪れると、黄水仙がたくさん咲いており、とても綺麗でした。
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