2021年6月、まいまい京都主催の梅林崖長オンラインサロン限定ツアーで清水寺を訪問、今まで気づかなかった沢山のことを学び、その後のオンラインサロンでも清水寺が取り上げられ、「奥の院問題」等の興味深い話があり、清水寺に対する興味が高まりました。
そこで、清水寺学芸員である加藤眞吾氏が書かれた本「清水寺の謎 なぜ「舞台」は造られたのか」を購入し、読んでいると以下の文章が目に止まりました。
一般公開されていないお像がいくつかある。朝倉堂内に安置されている文殊菩薩騎獅像もそうした像の一つ。元は清水寺の鎮守だった地主神社の本地仏だったが、神仏分離で地主神社が独立した際、清水寺で預かることになった仏である。
つまり、地主神社の本地仏は文殊菩薩であると書かれています。私は地主神社の本地仏は千手観音であると当然のように思っていました。例えば、醍醐寺を守護する清瀧権現の本地仏は准胝観音と如意輪観音であり、これは理源大師が准胝観音、如意輪観音像を上醍醐に祀ったのが醍醐寺の始まりであるという縁起に由来すると考えられます。よって、江戸時代まで清水寺の鎮守社であった地主神社は清水寺を代表する仏である千手観音が本地仏であると当然のように考えていたのです。
しかし、実際は文殊菩薩です。清水寺縁起には文殊菩薩は登場せず、また清水寺には文殊菩薩に関する逸話も知られていません。何故、文殊菩薩が地主神社の本地仏なのか。以下、それについて考えたいと思います。
春日社の本地仏
現在の清水寺は北法相宗の大本山ですが、それ以前は法相宗に属し、興福寺の末寺でした。つまり、清水寺は興福寺の京都別院であったとも言えます。興福寺は春日社との強い結びつきが広く知られていますが、清水寺にも、多くの鹿がやって来て一夜のうちに清水山の土地を平らに造成したという逸話が残されており、これは清水寺の建立に春日権現が力を貸したことを意味し、春日社との強い結びつきが感じられます。
春日社に祀られている五柱の神々の本地仏は以下のとおりです。
本地仏 | |
---|---|
一宮 | 不空羂索観音、釈迦如来 |
二宮 | 薬師如来 |
三宮 | 地蔵菩薩 |
四宮 | 十一面観音 |
若宮 | 文殊菩薩 |
興福寺には、南円堂の不空羂索観音像、中金堂の釈迦如来像、東金堂の薬師如来像、文殊菩薩像など上記本地仏が祀られていたのは当然ですが、興福寺の末寺であった室生寺にも、国宝の釈迦如来像、十一面観音像、重要文化財の薬師如来像、地蔵菩薩像、文殊菩薩像と本地仏に該当する各仏像が現存し、祀られています。
この事実から、興福寺の京都別院と言える清水寺にも春日社の本地仏に該当するものが存在していたと考えるのは自然であり、地主神社を若宮の本地仏を祀るお堂とみなすため、本地仏を文殊菩薩にしたという考えが導き出されます。
春日社の本地仏を祀るお堂
「地主神社を若宮の本地仏を祀るお堂とみなす」と記載しましたが、それは「清水寺には春日社の各本地仏を祀るお堂が存在した」という仮説に繋がります。そのようなお堂が清水寺に存在したか確認してみたいと思います。
・一宮
釈迦如来を祀る釈迦堂が現在も存在しています。
・二宮
薬師如来を祀る薬師堂は現存せず、16世紀に作成された清水寺参詣曼荼羅にも描かれていません。
・三宮
現在の善光寺堂はかっては地蔵堂でした。
・四宮
十一面観音を祀るお堂はありませんが、本尊の千手観音を十一面千手観音と見るならば、本堂が該当します。
・若宮
本地仏が文殊菩薩である地主神社が該当します。
つまり、二宮の薬師如来を祀るお堂が存在しないだけで、他の本地仏を祀るお堂は存在しています。興福寺の末寺であった清水寺に春日社の本地仏の中、薬師如来を祀るお堂だけがないのは不自然であり、かっては薬師堂が存在していたと考えてよいのではと考えます。
薬師堂が存在していたとすると、
(1) 薬師堂はどこに建っていたのか。
(2) 何故、薬師堂は無くなったのか。
という二つの疑問が浮かびますが、現状では完全に憶測になるので、もっと学んでから書ければと思います。
まとめ
・地主神社の本地仏が文殊菩薩である理由は、地主神社を若宮の本地仏を祀るお堂とみなすためである。
・清水寺には薬師如来を除く、春日社の本地仏を祀るお堂が存在しており、薬師堂もかっては存在したと考える。
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