令和元年の京都浄土宗寺院特別大公開が10月1日から27日まで開催されています。魅力的な公開が多い中、私は戦国時代好き&法話好きということで、長宗我部盛親のお墓があるので数回訪れたことがあるが堂内に入ったことない&法話が予定されている蓮光寺を訪れることにしました。
蓮光寺まで京都駅から歩いて行きました。9時45分頃に到着すると、既に御住職の話が始まっていました。ホームページでは、法話は10時、10時半、11時、11時半からとなっていましたが、公開時間中、ずっと喋り続けるそうです。法話で色々な話を聞きましたが、御本尊の阿弥陀如来立像のことを書きます。
負別如来
阿弥陀如来は快慶作です。快慶は仏像を彫るのを辞めようと思っていたところ、東国から人が訪ねてきて、仏像を造って欲しいと望まれる夢を見ました。すると、本当に東国の湯殿山から覚明というお坊さんが仏像造立の依頼で訪ねて来ました。
快慶は仏像を造るのを辞めようと思っていましたが、夢が正夢になったので、仏像を造ることにし、「1年後に来て下さい」と言いました。快慶は約束通り仏像を造りましたが、仏像の出来があまりにも素晴らしく、手放すのが惜しくなったので、1年後に覚明が来た時、「まだ完成していないので、1年後に来て欲しい」と嘘をつきました。
そして1年後、再び覚明が訪ねて来ました。快慶は今度は嘘をつけず、仏像を渡しました。しかし、今一度仏像を拝みたいという気持ちが抑えきれず、覚明の後を追い、山科の追分で追いつき、嘘をついていたことなど今までの事実を全て話しました。
覚明はその話に感銘を受け、仏像を入れた箱の蓋を開けて中を見ると、不思議なことに2体の阿弥陀如来像がありました。そこで、1体は覚明が東国に持ち帰り、1体は快慶が京都に持ち帰り、現在、蓮光寺の御本尊として祀られています。
本像は快慶作ですが、重要文化財の指定を受けていません。その理由は御住職が御本尊に「重要文化財になりたいですか」と尋ねたところ、「鑑賞の対象として在りたくない。信仰の対象として在りたい」と答えたから、指定を断ったそうです。
これを聞いて、今は仏像ブームということで、美術品として観ている方も沢山いらっしゃると思いますが、仏像は信仰の対象であるという基本中の基本を忘れてはいけないと感じました。
少し話がそれますが、法話中、大きな声でお経を声に出して唱えた初老の方がいました。一般にお経を声に出して唱えるということは良いことです。ですので、この時、誰かが初老の方を注意したならば、きっとその人は自分は正しいことをやっていると思っているので、怒ったかもしれません。
お経を大きな声で唱えるという原因がいつも良い結果に繋がるということはありません。原因と結果の間には縁という条件があり、縁により、結果は違ってきます。最近、多くの人がこの「縁により、結果は違ってくる」を忘れていると思います。ですので、自分は正しいことをやっているのに何故注意されるのだと逆ギレする人が増えているように感じます。
現代のようなストレス社会では、仏教の智慧がますます重要になると思います。美術品としての鑑賞だけでなく、仏の智慧も学びたいと訪問すれば、お寺めぐりも違ったものになると思います。
この記事へのコメントはありません。