人間として成長することを目指し、寺社巡りをした時に感じたこと、気づいたことを紹介

  1. 致知

いまをどう生きるのか

月刊致知7月号に掲載されている臨済宗円覚寺派管長の横田南嶺さんと天台宗圓融寺住職の阿純章さんの対談「いまをどう生きるのか」より。

感動こそが人を動かす

(横田)毎月「致知」を読んで皆の前で感想文を発表する木鶏会で、ある雲水が感想文に私のことを書いてくれましてね。「老師は座禅を喜んで実践なさっているし、座禅のことを感動をもって生き生きと話してくださる。そういう老師の姿を見て、素晴らしいと思う」と。それを聞いて、なるほどなと。彼らに伝わるのは感動だということが分かったんです。いくつになっても日々研鑽を積んで、新しいことに挑戦して、そこから得た感動を伝えていきたいと思うんです。

(阿)「感動」という言葉はあっても、「知動」という言葉がないのは、やはり人を動かすのは知識ではなく、感じたものだからではないかと私も思います。

自分は既に最高の環境にいた

(横田)発酵食品の専門家の栗生隆子先生は十四歳で歯の治療を受けた時に、治療で使われた水銀によって腸内の細菌が全部死滅して、二十代までほぼ寝たきりになってしまわれたんです。そこからいろんな出会いがあって、味噌とか麹といった発酵食品の大切さを知り、それらを食べることで死滅した腸内細菌が再びつくられて、とうとう健康な体を取り戻されたわけです。

(先生との)対談後にお昼をご一緒したんですが、栗生先生のご希望で我々が毎朝食べているお粥に梅干し、沢庵、味噌汁をお出ししたんです。素人がつくる粗末なものなんですが、「こんなに素晴らしい食事はありません」ってものすごく感動してくださったんですよ。

それを聞いて、自分な何と愚か者だろうと思ったんです。私は長い間、この粗末な食事をいただくのも修行だと思っていた。耐え忍んだ先にいいことがあると考えていたわけですが、本当は既に最高の環境にいて、最高の食事をいただいていた。宝の山にいながら宝に気づかずに、苦労して修行していると思い込んでいた自分の浅はかさに気づいたんです。

私もいろんなところで指導をしていますが、自分はこんなに辛い思いをした、苦しい思いをしたという気持ちで話をしても面白くないし、伝わるわけがありません。こんな素晴らしい体験をさせてもらった、これを伝えないなんてもったいないという気持ちに転換していかないと、やっぱりダメですね。

いま歩いているその足元に花は咲く

(阿)花を見ると、花びらしか花ではないと思ってしまいがちです。しかし本当は、茎があって、葉っぱがあって、地面、太陽があって初めて花があるわけで、すべての条件がそろっていなければ花は咲きません。花びらだけでなく、宇宙のあらゆるものに同じ価値があって、その中の一つとして花びらもあると思うんです。

人間も同じで、人生の局面の一つひとつも何かの手段だと思うと取るに足らないものに見えてしまいますけど、それも美しい人間の花の大切な一つだと思って、いま自分が歩いているこの一歩一歩を慈しみながら生きていくことが大切だと思います。

お釈迦様がお生まれになった時に、七歩歩いてその足跡に花が咲いたというエピソードがありますが、花というのは歩いた先にあるのではなく、歩いたその足跡に咲くものなのではないかと思うんです。花というゴールはずっと先にあるのではなく、いま歩んでいるその足元にある。そしてふと振り返った時に、人それぞれに素晴らしい花畑が後ろに広がっているのだと私は思います。

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