インターネットのニュースで、東京都台東区が「江戸から学ぶ」という連続講座を開催していることを知り、該当ページを見ると、浦井正明さんによる「江戸と寛永寺」という興味深い演題がありましたので、申し込みをしたところ、聴講できることになりました。本日、9月16日が開催日でしたので、会場である寛永寺輪王殿を訪れました。輪王殿は両大師堂に隣接しており、入るのは初めてでした。
講演会
1622年暮れに二代将軍秀忠が上野に徳川の祈祷寺を造ることを宣言した。そして、天海に上野の土地17万坪と高輪にあった御殿を寄進した。1623年7月、秀忠が将軍職を退き、隠居する。その際、天海に白銀5万両を渡した。
しかし、どういうお寺にするかで問題が発生した。幕閣は増上寺を徳川の菩提寺、寛永寺を徳川の祈祷寺にしたかった。つまり、寛永寺を徳川だけの寺にしたかった。一方、天海は徳川の祈祷寺にするのは構わない。しかし、行事がない時は庶民が出入りできるようにすべきだと考えた。つまり、お寺とは、庶民が来て、お参りできる憩いの場所であるべきだと考えた。結局、幕閣は秀忠が出したお金以外は出さないと決めた。
天海は道を整備し、品川から高輪御殿を移築して、1625年に寛永寺は開創された。1622年から3年もかかったのは、幕閣からの援助がなかったからである。天海はその後、不忍池に琵琶湖にある竹生島の弁天様を勧請した。もともとは竹生島を習い、中島だけで船で乗って参拝していたが、後年、参道が作られ、船に乗る必要は無くなった。しかし、天海の意思を尊重し、参道の途中にあえて橋をかけ、完全に地続きにはしなかった。
また、京都・清水寺の観音様、京都・方広寺の大仏様、京都・八坂神社の牛頭天王を勧請し、境内に祀った。当時、庶民が江戸から京都に行くのは難しく、上野に行けば、関西の有り難い仏様にお参りできると、江戸の市民は喜んだ。
四代将軍である家綱のお墓は寛永寺に作られ、この時から寛永寺は祈祷寺と同時に菩提寺になった。しかし、幕閣とまだ対立していたので、メインの祈祷寺ではなかった。五代将軍の綱吉の代に幕閣との対立は無くなり、根本中堂など主要な建物が建立されるようになった。
私の感想
天海僧正の寛永寺建立に対する思いを知ることができたのが有意義でした。上野公園は現在桜の名所ですが、江戸時代からそうであったと聞き、徳川将軍ゆかりの寛永寺がなぜ桜の名所だったのか不思議でした。今回の講演を聞き、天海僧正の思い、「お寺とは本来、誰もが自由にお参りできる憩いの場所である」を実現していたのだと分かりました。
江戸時代に寛永寺の寺域だった大部分は現在上野公園になっていますが、上野公園で楽しんでいる人たちを見ると、天海僧正の思いは現在も実現されているのではと感じました。
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