毎年11月3日の文化の日を中心に東京文化財ウィークの特別公開が開催されています。特別公開の案内を東京文化財ウィークのサイトからダウンロードして見ていると、11月1日から3日まで、祐天寺の木造祐天上人坐像が特別公開されるとありました。興味を持ったので更によく読むと、
『公開期間中は宝物展示室で「かさね~累得脱曼荼羅の世界~」を同時開催。展示解説等を11:00、14:00より行います』
とありました。
祐天寺は東急東横線に祐天寺駅があるので、もちろん名前は知っていますが、実は訪れたことはありませんでした。今回は良い機会ですので、11月3日の14:00少し前に訪れることにしました。
祐天寺へ
祐天寺の最寄り駅はもちろん東横線の祐天寺駅です。祐天寺駅からのんびり歩いていくとほどなく祐天寺の表門に到着しました。
表門から境内に入ると、仁王門があり、立派なお寺です。真っ直ぐ歩いているとテントがありましたので、そこが文化財ウィークの受付場所だと思い、訪れ、案内等をいただき、宝物展示室に入りました。
宝物展示室
展示の第1章は「累と祐天上人」で、江戸時代に下総国羽生村で起きた怨霊憑依事件とその怨霊を得脱させた祐天上人を紹介していました。恥ずかしながら私は累の話については全く知らなかったので、以下に頂いた案内に掲載されていた内容を紹介します。
今から約400年前のことです。羽生村で身体に障害を持った助という男児が母親に殺され、翌年その助によく似た妹の累が生まれました。成長した累は与右衛門という入り婿を迎えますが、容姿が醜いことからしだいに疎まれるようになります。そして、正保4年(1647年)8月、刈豆を収穫した帰りに累は与右衛門によって絹川(鬼怒川)へ突き落とされて溺死しました。
その後、与右衛門は後妻を迎えたもののみな早死にし、6番目の妻との間に菊という娘を授かります。菊が14歳となった寛文12年(1672年)春、累の怨霊が菊に取り憑き、与右衛門の悪業を暴露し、菊を苦しめ続けました。しかし、当時隣村の弘経寺で修行中の祐天上人が念仏の功徳によって、累のみならず兄の助まで得脱させます。この事件をきっかけに祐天上人の名は世に広く知れ渡ることとなりました。
展示では、祐天上人が累の怨霊得脱供養に用いたと伝わる数珠、絵解きに使用された累得脱曼荼羅、祐天上人並びに累・助・菊像などが印象に残りました。
本堂
宝物展示室の次は本堂を訪れました。祐天寺は浄土宗のお寺なので、正面に阿弥陀如来が祀られていました。内陣も拝観できるようになっていたので、内陣に入ると、まず大きな閻魔大王像と奪衣婆像が祀られており、奪衣婆像の周りには小さな十王像も安置されていました。
何故、地獄を連想させる閻魔大王などが本堂に祀られているのかと思いましたが、
・累は地獄に落ちて苦しんでいた
・祐天上人の本地身は地蔵菩薩である(地蔵菩薩は地獄に落ちた者を救う仏です)
を後から知り、上記の理由から祀られているのだろうと思いました。
更に奥に歩を進めると、東京文化財ウィークで紹介されていた祐天上人坐像が祀られていました。祐天上人は82歳で亡くなりましたが、弟子の祐海上人が亡くなってすぐに仏師を呼んで造らせた像とのことです。今回のように内陣に入って近くで拝観できる機会は滅多にないとのことで、貴重な機会でした。
研究室職員と僧侶による「ミニ講座」
14時になりましたので、本堂でミニ講座が始まりました。まずは「累得脱曼荼羅の解説」です。宝物展示室に累得脱曼荼羅が展示されており、絵解きに使用されていた記録があるのですが、どのように絵解きをされていたかは分からず、今回、祐天寺の研究員の方からオリジナルの絵解きがありました。やはり、展示の文章を読むだけより、実際に話を聞いたほうが良く理解できます。
次は展示品見どころ解説です。累は江戸三大幽霊の一人だそうで、残りは四谷怪談のお岩さん、番町皿屋敷のお菊さんとのことです。四谷怪談と番町皿屋敷は知っていましたが、今回の祐天寺訪問で累のこともしっかり覚えました。
最後は法話です。危ない池に落ちてから助けるのではなく、危ない池に行かないようにすることが僧侶の役目という言葉が印象に残りました。
最後に
今回の祐天寺訪問ではたくさんのことを知ることが出来、とても有意義でした。来年の東京文化財ウィークで祐天寺の特別公開があれば、再度訪れてみたいです。
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